February 6, 2022
泣ける本。と言って紹介するのは間違っているのだと思います。
でも、私はこの本を読み終えるまでに何度も泣きました。
自分が救われたような気持ちになったから。
土井善晴先生の
『一汁一菜でよいという提案』
この本の存在を知ったのは、たまたまTwitterでこの本のレビューが紹介されていたからでした。
そのツイートはもう削除されてしまっていますが、この本のトップレビューになっているものがそれです。
敢えてこちらには掲載しませんが、よかったらぜひこの本のAmazonのレビューをご覧になってみてください。
世の中にはこのような思いをしている人が、沢山いるのだろうと思います。
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少し私的な話をします。
私も料理が苦手だなと思いつつも、かつて結婚していた10年間くらいの間はとても頑張ってやっていたのです。
栄養バランスを考えたり、できるだけ手作りの調味料を使ったりしながら、基本的に「一汁三菜」を心がけていました。
ご飯を炊いて、お味噌汁を作って、それにおかずを3種類。
要領の良くない私は、それこそ夕飯を作るのに、どんなに急いだとしても最低1時間半や2時間はかかっていたと思います。
出来上がって席についた時には自分がクタクタであまり食べる気にもなれず、、と言うことも良くありました。
付き合いも仕事のうち、というような職種だったその当時のパートナーは
「あそこで食べた〇〇が美味しかった」(君はそんな味知らないだろうけど、という含みを込めて)と言いながら、口に合わないものには手をつけませんでした。
最もこたえたのは、作り終わって帰りを待っていたのに、帰ってくるなり
「もう外で食べてきちゃった」と言われたこと。
献立を考えて、あれこれ工夫して、長い時間をかけて、やっとできた・・・!
と思ったものが、その一言で全部『無かったこと』になってしまうのです。
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結婚生活を終了してからもうすぐ5年になろうとしている今
私は自分の中から料理をする、という行為を一切手放しました。
何年間も一生懸命やってはみたけど、どうしても好きにはなれないものだったし、
「女性が、母が、ちゃんと料理を作れるべき」
という古い価値観から救ってくれたパートナーがいるからです。
私は毎日、そのパートナーが作ってくれるお料理をしみじみと、味わいながら食べます。
作る人にかかる労力も、込める気持ちも知っているし、苦手な私からしたらとても有難いことだからです。
私が思うに、日常に潜むものが、最も尊いと思うのです。
当たり前に目の前にあるものが、人が、食べ物が、基礎となるからです。
それは変わり映えもしないし、地味で、質素で、必ずしも豪華ではないかもしれない。
高級なレストランに出てくるようなものではないかもしれないし
インスタにあげるような見た目でもないかもしれない。
でも、間違いなく一番大切なものが、生活の中にある。
人間の暮らしでいちばん大切なことは、「一生懸命生活すること」です。
料理の上手・下手、器用・不器用、要領の良さでも悪さでもないと思います。
一生懸命したことは、いちばん純粋なことです。そして純粋であることはもっとも美しく、尊いことです。
99ページより
土井善晴先生のこの言葉で救われたような気持ちになるのは、(おそらく日本ではまだまだ多いと思われる)日常の家事や育児をしている女性が多いのではないかと思います。
本来日々を一生懸命生き、暮らしを大切にすることこそ尊いことなのに、軽くみられてしまうことも多々あるからです。
私がこの本を読んで涙したのも、昔の辛い思い出がこの言葉によって成仏したと感じたのと
今の私がとてもとても大切にしていきたいと思っていることを、
優しく土井先生が肯定してくださっているからだと思います。
外のものは特別で、家の中のものは特別ではありません。日常です。
でも、どうでも良いものではないのです。
日常にあるものが最も尊いものなのです。
でも、力んで美しく、美味しく、ちゃんとしなきゃ
と思わなければいけないものでもない。
家庭料理が、いつもいつもご馳走である必要も、いつもいつもおいしい必要もないのです。
家の中でありとあらゆる経験をしているのです。全部社会で役に立つことばかりです。
上手でも下手でも、とにかくできることを一生懸命やるのがいちばんです。
104ページより
でもたまには、「ご馳走」も作ります。
クリスマスにはローストチキンを作ったりね。
そしてたまにはお味噌を手作りします。
大豆を煮るところから、ちゃんと。
菜園で採れた野菜を使うこともたくさんあるし
時にはフライパンごと食卓にのっかることもある
見返りを求めない家庭料理は、命をつくる仕事
100ページより
ストーブでじゅうじゅうすることもある。
家庭料理では工夫しすぎないことのほうが大切だと思っています。
それは、変化の少ない、あまり変わらないところに家族の安心があるからです。
料理をする行為が純粋である場合には、良き食べ物を作るということが無意識にも含まれているように思います。
作る人が食べる人のことを考えている。
料理することは、すでに愛している。
食べる人はすでに愛されています。
102ページより
私はもっぱら、お菓子専門になりました。
自分でパンを焼いてみたり。
人間が初めて余暇を持ったとき、何をしたのかと考えました。
人間の命の働きが愛情であれば、自分のことではなくて、おそらく自分以外の人(命)のために、何かをしたと思うのです。
余暇とは、家族の喜ぶ顔を思い浮かべて、着物を作ること。家をきれいに掃除すること。野菜を作ること。花の種をまくこと。遠くまで木の実や熟した果物を採りに行くことなのです。
ただ生きるだけならしなくてもよいような、人のための親切、心の潤いを作る行為です。
現代では、すでに仕事となっていることも、はじめは全て無償の行為だったのです。
その行為は、家族の喜びのため、自分以外の人が喜ぶことを楽しみにしたのだと思います。
173ページより
料理することが苦痛で、苦手であるということに
少なからず罪悪感を抱いていたので
こんな風に生活を、普段の食卓を楽しむことは、私の夢でした。
お料理を作ってもらい
それに感謝して味わっていただく
という毎日のやりとりに、
今は深い幸福感と満足感を感じています。
もしかしたらいろんなものに縛られながら料理をしていたあの頃のことが
ただトラウマとなっているだけで
本当は全然嫌いじゃなかったのかも、とも思います。
土井先生の、優しく語りかけるような
「一汁一菜でよいという提案」にあの頃に出会っていれば
また違ったのかも───。
心地の良い空間で、みんなで食卓を囲んで「普通に」美味しいお料理を食べること。
毎日を蔑ろにせず、大切にすること。生活の担い手に、感謝すること。
それが、Room Euphoria(悦びに満ち溢れる部屋)の、もとにもなっている思想でもあるし
最終的に目指すところでもあります。
喜びは、日常の中に、あるのです。